杉せいろ、二段重ねのわがまま。――キャベツの甘みとネトフリと

57歳、今更ながら、せいろである。

きっかけは、陶器の蒸し器だった。「これはいいかも」という予感は、一口食べた瞬間に確信に変わった。早い、楽、そして何より、驚くほど美味しい。野生のカンが「もっと先がある」と告げた。そうして私の台所に、清々しい竹の香りを纏った二段重ねの「竹せいろ」がやってきた...と言いたいけれど、現実は「杉せいろ」がやってきた。

「野生のカン」が選んだ、二段重ね

二段重ねという構造は、実に合理的である。

下の段には肉や魚、上の段には彩り豊かな野菜たち。隙間にはソースを入れた小鉢を忍ばせ、ついでに半熟卵の仕込みも済ませる。コンロの火を点ければ、あとは蒸気がすべてを解決してくれる。

世間では「家族のために、手間暇かけた蒸し料理を」なんて美談にするかもしれない。けれど、私の本音は少し違う。この合理的な二段重ねがもたらすのは、家族への献身ではなく、私自身の「自由」なのだ。

献身よりも、 二十分の「自由」を

せいろがシュンシュンと音を立てる二十分間。私は決して、立ち上る湯気をうっとりと眺めたりはしない。

その時間は、私の聖域だ。お気に入りの紅茶を啜り、ネトフリの画面に没頭する。あるいは、将来の夢に向けてFXのチャートを睨む。値動きの折れ線を眺める目は、デリカコーナーで煮物の仕上がりを見極めていたあの頃と同じ。人生の「煮込み具合」を確認しているようなものかもしれない。

キャベツの底力と、生きる力

野菜を蒸すと、味が濃厚になり、甘みが強く主張を始める。

特にキャベツには驚かされた。今まで食べていたのは何だったのかと思うほど、芯までとろけるように甘い。野菜が本来持っている「生きようとする力」に、今更ながら気づかされる。この力強さに触れるとき、生死を彷徨ったあの日から、私が今ここで呼吸をしている不思議を、ふっと思い出すのだ。

湯気の余白に、家族を包む

出来上がったせいろを、そのまま食卓へ運ぶ。

大学生の息子は、相変わらず無表情だ。お弁当を作り、部屋を掃除し、せいろで蒸し上げた最高の一品を出しても、彼は石像のように動じない。喜んでいるのは、私一人。

でも、それでいい。

無表情な息子の頬を、せいろの湯気が柔らかく撫でる。夫が淡々と箸を動かす。時短で浮いた二十分が、私の心に余白をくれる。その余白があるからこそ、反抗期の息子の沈黙さえも、大宇宙の大きなリズムの一部として笑って受け流せるのだ。

二段重ねの「杉せいろ」から立ち上る真っ白な湯気。その向こう側には、今日も、ささやかで揺るぎない「私の幸せ」が蒸し上がっている。

杉せいろの正体 

今回私が手にしたのは、松野屋の杉せいろ、大きさは 21cm。

せいろを支えるのは、ホクア(北陸アルミニウム)の段付き鍋、21.5cm。

せいろビギナーには充分すぎる構成なので、安心して「湯気の向こうの幸せ」に挑戦して欲しいと、心から思っています。

自分を愛したくても、つい家族を優先してしまう、愛すべき主婦の方々へ。愛と感謝を込めて。
<おわり>