疑いもしなかった「右手にスポンジ、左手に洗剤」という重荷
長年、疑いもせず右手にスポンジ、左手に洗剤を握りしめてきた。
それが台所の「正解」だと信じ込み、シンクの一等席を我が物顔で占領していたあの重たいボトルを、私はついに手放した。
それだけで、台所全体にふわりと新しい風が吹き抜けたような気がした。胸のつかえがすっと下りる、晴れやかな心持ち。
思えば、あの一帯はいつもベタついていた。
プラスチックのポンプに、飛び散った泡。無意識のうちに抱えていた「なんとなく、気持ち悪い」という感覚。それは、長年自分に嘘をつき続けてきた代償だったのかもしれない。

デリカの戦場を生き抜いた指先が、その「正解」を知っている

「洗剤とスポンジがなければ、食器は洗えない」という思い込みを洗い流してくれたのは、滋賀県発「びわこふきん」だった。
ガラ紡と言う古い機械で織られたの柔らかな風合いを湛えた綿100%の「びわこふきん」。
プラスチックのスポンジを握っていた頃の、あの指先に残る不自然な摩擦がない。手に馴染む綿の感触は、どこか懐かしく、そして誇らしい。
「洗剤を使わなくても、これだけで落ちるなんて」
目から鱗が落ちるというのは、まさにこのことだ。油汚れも、お湯とこの子がいれば、驚くほど素直に消えていく。洗剤代も水道代も浮き、何より「泡を切る」という無駄な時間が削ぎ落とされた。時短で浮いた時間は、チャートの勉強に回せる。まさに一石二鳥、いや、一石三鳥だ。
小躍りする夫と、深海の如き無言を貫く二十一歳

道具を変えただけで、台所に立つ背筋がピンと伸びた。
洗剤とスポンジがなくなっただけなのに、ハッピーな気持ちが湧いてくる。
そんな私の変化に、夫はすぐに気づいた。
「ふきんで食器が洗えるの?」
そう言って、洗剤の消えたシンクを見て、信じられないものを見たかのように感動している。一歳年下の彼は、私の小さな「革命」をいつも面白がって、そして深く尊重してくれる。
一方で、二十一歳の息子は、凪(なぎ)そのものだった。
目の前で台所の景色が激変しているというのに、深海のような静けさを保ったまま、一言も発しない。
気づいていないのか、あえて無視しているのか。
そのあまりの無反応っぷりに、私は心の中でクスリと笑ってしまった。いいのよ、あなたはあなたのままで。その静寂さえも、今の私には心地よい。
「洗剤」というノイズを消して、手に入れた贅沢な静寂

自分が喜ぶことを選んだら、それがそのまま地球の喜びに繋がっていた。 今まで、私は「洗剤で洗う」という義務感に縛られ、自分にも地球にも、随分と無愛想なことをしてきたものだと思う。 化学的な泡で汚れを隠すのをやめたら、そこに残ったのは、ただの清潔な器と、それを見つめる豊かな時間だった。
シンクを磨き上げ、最後の一滴を拭き取る。 天に感謝し、自分を慈しむ。 洗剤というノイズを手放して得たものは、物理的な広さだけではない。 それは、自分自身と仲直りするための、深く、温かい静寂だった。
<ありがとうごさいます。フクヒロ・ユキ>
